繰り返しになるが、日本にアートというものは存在していない。そんな日本にアートという芸術ジャンルを確立するためには既存市場経済とのリンク、すなわちマーケットの創出が不可欠。
「芸術」「アート」の経済的有用性を、メリットを、数値と事例とで具体的に示しROI (return on investment=投資回収率)の観点でプロモートする、そのような試みは行われたことがあるのだろうか?
そんなことをここ数年ぼんやりと考えている。
「客はアートでやって来る」は、そんな私の中でのモヤモヤに示唆を与えてくれる。
経営手法としての「アート」の可能性
本書は知る人ぞ知る栃木の老舗旅館「大黒屋」を取り上げたルポ。アートを経営に取り入れる手法で、軒並み非常に厳しいと言われる業界内で黒字を出し続けていることでしられる旅館だ。
作家活動をしておられる方の中には「大黒屋現代アート公募展」でおなじみであろう。
大黒屋の成功を裏付ける数字には枚挙がない。
- 客の一割は1週間以上滞在
- 7割以上の客がリピーターに
- 通年で4割の空室率(業界平均は年間6~7割)
- 海外からの宿泊客が年700人
「アート×経営」の成功を受けて2005年には企業メセナ協議会からアートスタイル経営賞を受賞している。
大黒屋のアート
では大黒屋は、具体的にどのようなアート作品をどんなふうに取り入れているのか?
取り入れるのは現代アート
大黒屋が取り入れているのはいわゆる日本人ウケの良い印象派などの有名絵画ではない。いわゆる現代アートというやつ。一般に「よく分からない」とレッテルを貼られて世界から抹殺されてしまうソレである。
それこそ先に挙げた「大黒屋現代アート公募展」では大賞受賞者に敷地内での個展開催の権利が与えられる。
経営理念の土台は菅木志雄
大黒屋社長の室井俊二氏は「菅木志雄の言葉を、経営の考えからの土台にしています」と語る。ドラッガーではない。もの派で知られる美術作家、菅木志雄である。
2億円で200作品超
アート購入のために投じた資金は20年で2億円。購入した作品は200点を超えるという。その庭には杉浦康益、菅木志雄らの作品が置かれ、壁には李禹煥の平面が飾られている。モネでもウォーホルでもない。
情報化社会における新しい組織のあり方
本書は、エイズ問題・五感などをテーマにルポを書いてきたノンフィクション作家の山下柚実が、大黒屋のアート経営スタイルの取材を重ねて書かれたものだ。
アートの専門家のそれとは異なる視点からの取材に根ざした文章には、他のアート系の読み物にはない新鮮さがある。同時に本書に対する私の関心事は「アート×既存経済」であったので、その意味においてもギャラリストやキュレーター、評論家視点ではない氏の見解には大いに刺激を頂いた。
おすすめできる対象者
本書において最終的に浮かび上がってくるのはアートそのものではなく、あくまでも企業論だったり組織論だったり経営論だったりに帰結するのだが、ネットの台頭によりモノとサービスがいとも簡単に比較検討できる現代においてのそれらの新しい形を提示している。
ここにあるのは「新しい組織のあり方」である。
当然ホテル・旅館業の方々は得るものが多いであろうし、企業としてアートを取り入れようと試みられている他業種の方が読まれても本書は示唆に富むものだと思う。
しかし個人的にはこのような本こそアーティストを目指している人たちに読んで欲しいと思うのである。
- 自らが作り出す作品が社会にどのようなメリットをもたらすのか?
- どのような価値を提供できるのか?
これらの視点を持つこと、そしてそれを言語化し説明すること、これなくして対価は得られない。それが市場というものだからだ。
Amazonで「客はアートでやって来る」をみてみる。