ウォーホルから導くポップアート

ウォーホルから導くポップアート

マリリン・モンローやエルヴィス・プレスリーなど、大衆社会のスターの写真をシルクスクリーン技法により再現し、キャンベルスープやコーラなど誰にでも入手可能なモチーフにほとんど手を加えることなく並べ立て作品にした20世紀の最も評価されるべきアーティストの一人で、ポップアートの代表的人物の一人として世界中でその名を知られているアンディー・ウォーホル。

その最大の功績は欧州を中心としたブルジョア的な芸術、すなわちハイアートを解体し、それに対するアンチテーゼとしてのプロレタリア的なアート、すなわちローアートの新たな地平を開拓したことだと言えよう。

以下にそのウォーホルを考察することでポップアートというものをおぼろげながらも浮かび上がらせていきたいと思う。ポップアート自体を考えるのではなく、ポップアートの申し子であるウォーホルについて考察することで、ポップアートの輪郭を描いていきたい。まずはその生い立ちに注目しポップアートの本質を探っていく。


Creative Commons License photo credit: Lambholic ▲

ウォーホルの生い立ち

ウォーホルは1928年8月6日ペンシルヴェニア州ピッツバーグで、父が炭鉱労働者の労働階級の家庭に生まれた。本名AndrewWarhola。両親は東欧チェコスロバキア出身の移民。この境遇が後にハイアートではないローアートとしてのポップアートを生み出した要因の一つとして考えられる。

ポップアートの定義

ポップアートとはすなわち消費社会、大衆社会の芸術である。言い換えれば、個人という観念のない芸術とも言えるだろう。言わずもがな、東欧チェコスロバキアは共産主義の国家であり、そんな国で生まれ育った両親の元に生まれたウォーホルが、資本主義の象徴的芸術であるポップアートの代表的存在となったわけだが、そこには見落とすことのできないポイントがある。

ポップアート=資本主義という図式にのみ囚われていると見えてこないが、彼の作品には随所に共産主義的な香りがある。以下に詳しく述べるが、彼はコーラやキャンベルスープを延々と反復させる。このイメージにはそれが本物のコーラやキャンベルスープか分からない。つまりそれらは平等性を持ってくる。

また彼の有名な言葉に「人は誰でも15秒間だけ有名になれる」というものがある。これもまた平等である。

ウォーホルの作品は資本主義の中の富める層の人たちの特権的芸術ではなく、大衆のための平等的芸術であった。それは巧みな技術を必要とせず、一般大衆にとって非常に身近なモチーフを描いた。
学問的・階級的なエリートのための特権的芸術を破壊し、すべての人々に対し平等であるような芸術を提唱した点において、共産主義、つまりすべての人が平等であるべきという理念を持つ社会との関連を指摘することができるのだ。

さらに言えば、貧富の差を許容する資本主義社会を共産主義的視点で見ることにより、資本主義に内在する「平等」という側面に光を当てたとも言えよう。

ウォーホル作品の分析

次にウォーホルの作品を次の4つの観点から考察してみたい。

ポップなモチーフ

まず第一にモチーフのポピュラーさである。ウォーホルが作品で使ったモチーフをいくつか挙げてみよう。

キャンベルスープ、コカ・コーラ、ブリロ・ボックス、エルヴィス・プレスリー、ジョン・F・ケネディ、マイケル・ジャクソン、マリリン・モンロー、ミック・ジャガー、毛沢東、ドル紙幣、ピストル、ミッキーマウス、自由の女神、電気椅子などなど。いずれのモチーフもアメリカにおいて非常に身近なものであり、また消費社会、資本主義社会の象徴的なものばかりである。従来の芸術が保ってきた、ある種の品格・聖性を考えると、極めて日常的であることが分かる。ここでひとつのエピソードを紹介したい。

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Creative Commons License photo credit: eridesign

1961年の12月のこと、ウォーホルはインテリア・デザイナーで画廊経営者でも友人リュミエル・ラウルに「僕はいったい何を描いたらいいのだろう」と相談したところ、「一番好きなもの、誰でもが日常目にするものを描けばいい」と言われ、その後すぐにスーパーマーケットにスープ缶を買いに行き、一つ一つ忠実にスケッチしたと言う。何の工夫もせず、ありのままのスープ缶を何個も、何個も写した。これがアメリカの芸術界に一大センセーションを巻き起こすこととなったウォーホルの『キャンベル缶』シリーズの誕生だった。

ポップアートとは芸術に大衆性を持ち込んだ芸術なのだ。

反復による芸術

第二に均質なユニットによる反復という点である。

1962年の『100個の缶詰』はその題名が示すとおり、ただただ缶詰が100個描かれているだけの絵だ。彼の作品は同じモチーフをひたすら反復させ配置することで成立している。

ポートレート作品における反復は、実物のスターその人を伝えるのではなく、テレビや映画、新聞や雑誌といったメディアを通して伝えられるイメージをひたすら反復させることでそのイメージすら無効化してしまう。資本主義社会のどこか肉体性を伴わない、空虚な感じが前面に立ち現れている。

反復が最も効果的に使用されているのが初期の「死」を扱った作品であり、反復の無限性によって、人にとって「死」という最も肉体性を伴うはずのことさえもが肉体性を奪われ形骸化されている。モチーフという点では異なるが、これはミニマリズムの思想と関連付けることができよう。ミニマリズムは「最小限主義」と訳されるが、「最小限の素材(の反復)から最大限の効果を得ようとする」という点において関連性を見出せる。

Warhol-ized letters from Campbell Soup to Warhol
Creative Commons License photo credit: docpop

生産としてのアート

第三に「生産」というキーワードを挙げたい。

それはウォーホルが自身のアトリエをファクトリー、すなわち工場と呼んだことに象徴される。ファクトリーはアルミホイルと銀色の絵具で覆われた空間であり、あたかも工場で大量生産するかのように作品を制作することをイメージして造られた。彼はここでアート・ワーカーを雇い、シルクスクリーンプリント、靴、映画などの作品を大量に作る。工場の流れ作業のように機械を用いてアートを大量生産したのだ。言い換えれば大量生産すること自体をアートにしてしまったのである。

制作ではなく生産。
ウォーホルの芸術は自己表現ではなく生産なのだ。

ちなみにこの生産という観点で言えば、ロバート・ラウシェンバーグの、写真をシルクスクリーンによってコラージュ風に導入する作品との関連も指摘できよう。シルクスクリーンの技法は、それまでは主に工業用印刷としてプラスティックや金属などの製品の表面に用いられていた。インクを直接のせることができるため、印刷媒体を限定することなく、幅広く使用することができたからだ。現在でも携帯電話の表面などにシルクスクリーン印刷が用いられている。このことを考えると、より「生産」というキーワードを理解できるだろう。

Los Steaks. Aritzatxu Rock 2010
Creative Commons License photo credit: Igorza76

ボーダレス社会のアート

第四のポイントは「無境界性」である。

先に述べてきたように、ウォーホルはシルクスクリーンという工業社会の技術を用いて、大衆社会的、アメリカ的モチーフを反復的に配置することで作品を「大量生産」し、それを芸術とした。この中には幾つもの二項対立を認めることができる。芸術と工業製品、一品制作と大量生産、ヨーロッパとアメリカ、富める者とそうでない者。そう、ウォーホルの作品はこれらの二項対立を無効化してしまうのだ。

ウォーホル以前には両者の間には確たる線引きがされていたのだが、彼はそれを無化したのだ。そしてまたこの「無境界性」は作品だけのみに留まらない。ウォーホルとは?と言う問いに対しての回答は幾つでも挙げることができる。

ウォーホルの肩書き

イラストレーター、映画監督、雑誌編集者、モデル、CMディレクター、ロックバンドのプロデューサー、美術作家などなど。

つまり誰も彼を明確に限定できない。すなわちウォーホル自身もまた無境界的なのだ。さらにウォーホルは作家と作品との境界線まで破壊してしまった。ウォーホルは銀髪の鬘を着け、顔に薄化粧し、更に整形手術で鼻まで高くしていた。そして自らを頻繁にメディアに登場させた。

例えばTDKビデオカセットテープのCMに出演。『イマ人を刺激する』と題し、右肩にテレビのテストパターンを持ちながら「アカ、ミドォーリ、アオ、グンジョーウイロ…キレイ」等と、たどたどしい日本語で静かに呟く。ウォーホルは作家なのかはたまた作品なのか。この両者の境界まで破壊してしまったのだ。

Mike Bidlo, Not Warhol (Brillo Boxes, 1964), 2005
Creative Commons License photo credit: 16 Miles of String

以上ウォーホルの生い立ちから、ポップアートとの関連性を探り、四つの視点から作品について考察してみることでポップアートの輪郭を浮かび上がらせてきた。しかしこれだけではウォーホルという男を語りつくすのには不十分であり、ポップアートの美術史的価値を検証するにはまだ意味を成しえない。それは美術を美術足らしめるものはなにか?というウォーホルが人々に対して投げかけたアートの本質に関わる問題である。

ダダイズムの代表的な芸術家であるマルセル・デュシャンは「レディ・メイド」という様式により美術とは何かを問うた。
デュシャン以前は作品に美術価値があるからその作品は美術だ、という構造を持っていた。しかしデュシャンは「レディ・メイド」という様式により、美術館と呼ばれるシステムによって作品は美術足りえるのではないか、と投げかけた。ではウォーホルは一体美術というものについてどのように考えていたのだろうか。

ウォーホルにとっての美術

それは彼のある一つの発言に集約されている。

人が美術作品として買うならそれは美術作品だ

そう、ウォーホルは美術を美術足らしめるものは美術市場であると考えたのだ。工業製品と芸術品との境界を破壊、つまり機械を用い大量に作品を生産したウォーホルだが、それでも彼の作品はアートだとされた。ウォーホルの作品は見るものに対し、本当にアーティスト本人が描いているのか?といったことを前面に問いかける。そこには作品を誰がつくったか、という事よりもA.WARHOLというサインや名前に金が払われている、といった皮肉が込められているようにも感じられる。ウォーホルの作品は美術とは美術市場があるが故に存在するということを私たちに知らしめたのだ。

ポップアートとは1960年代、抽象主義に反抗してニューヨークを中心に生まれた美術と、50年代からのロンドンの活動があると言われる。アメリカン・コミックスを拡大して描くリキテンスタイン、『キャンベルスープ』のウォーホル、そしてウェッセルマン等が代表的人物だ。そこで私はウォーホルを読み解いていくことで以上のようにポップアートというものが何であるか、そしてポップアートが美術史のなかでどのような価値を持つかを浮かび上がらせてみた。

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