人々は2本足で道を歩き、
車は4つのタイヤを道路にぴったりあてて走り行き、
昼になればみんな町をそぞろ歩き、
夜になったら酒飲んで寝ちゃう。。
その意味ではヨーロッパも日本も全然なんにも変わらない。
そりゃ思考や、価値観や、モノの見方や、体の使い方に至るまで
とことんその差異は見えてきて、それは私赤井にとっては
とても興味深いところではあるのですが、
衝撃的というにはほど遠いものでした。
photocredit:kern.justin
自分で言うのもお恥ずかしい限りでありますが、
わたしは感受性は豊かなほうだし(多分ね)、
モノを見る視野も・・・。(と勝手に思い込んでみる。。。)
だから今回のヨーロッパ遠征では強いカルチャーショックを受け刺激に満ち溢れた日々になるだろな、と思っていたのです。
もちろんとてもエキサイティングだったし、刺激的だったし、充実していたし、とても楽しい体験でした。なぜイタリア人がジローラモみたいに陽気でリアクションがでかく、遊んで暮らすことに執念を燃やすのか分かったし、どうしてヨーロッパでは何百年も昔の、それこそ日本だったら重要文化財とかになっちゃいそうな古く歴史のある建物に普通に住んでいるのか分かったし、日本料理が如何に繊細で世界的に見てレベルが高いかの所以もわかったし、最近では「日出づる国の日没」なんて落ち目に見られちゃう日本だけど、現実には未だ世界トップレベルの経済大国であることも分かった。
私は個人と環境との関係性に昔から興味があります。もっと言うと、環境は個人の思考をどう規定するか?ということに興味があるのです。さてなんのことやら意味不明。
例えば石造りの建物は、そこに住む人間のものの見方にどう影響を与えるか?とか英語という言葉は、それを話す人間の思考をどうかたちづくるのか?ってこととかにすごく興味があるのです。ですので、絶対的に環境が異なる国、つまり歴史的背景も、自然環境も、言語もあらゆる環境的側面がちがうヨーロッパに行った事は私にとってとても衝撃的なハズなんだが、脳天ガツーンとやられなかった。
もちろん少々年をとったせいもある。
そして途上国のド田舎に行かなかったせいもあるのでしょう。
でも、その理由はおそらく私がアートに関わっているからだと思うのですね。私は多くの作品を見ます。そしてこれまた多くの作品を作ります。作品ってのは作ったその人をそのまんま反映しちゃうもの。作品をみるとその人がみえてくる。そしてその人が見ている世界がみえてくる。作品というのは100人いたら100通りのものが出てくる。私はそれを毎日毎日、真正面からそれに向き合っている。だから人はみなそれぞれ違うってことが、自分の見ている世界だけが現実じゃないってことが非常に高いレベルで体が分かってるのでしょう。それが血肉としてわたしの体に刻み込まれている。だからなんじゃないかなーって。
環境は個人をどう規定するか?
環境は個人の思考をどう支配するか?
興味のある方ご覧ください。
- テキスト:日本語という名のメガネをかけて世界を見る