都内某所で開かれていた展示を見てきました。
正直失望と言うか、憤りと言うか・・・。 ショック。凹みました・・・。一言断らせて頂きますと、「失望」というのは期待と現実とのギャップから生まれるものであり、期待のないところに失望はないんです。
この展示はとあるビルのウインドウ内(?)で行なわれていました。DMを見ながらその場所を探していたのだが、そのDMの分かりづらいことといったらこの上ない。まず、最寄の駅からどのくらいかかるのかが分からない。
デザイン処理され、実際の距離とは関係なく道の長さが描かれたその地図からは距離感が分からないし、 かといって文章での記述もない。次に何時から何時までやっているのかが分からない。記述なし。
photo credit: Iwan Gabovitch
また当ビルに着いてもその展示場所が非常に分かりづらく、 そのビル内で右往左往してしまいました。なんせショーウィンドーみたいな感じだったのでなおさら。
わたくしのような、勉強のために作品を拝見させていただくような立場の者に対してならばそんなことはどうでもよいのですが(見させていただくだけでも有難い)、展示する側から言えば、サバイバルのために 展示するのであって、それは取りも直さずアートの愛好者、購入してくれるお客様に見てもらうために展示するわけです。にも関わらずこの不親切さは如何なものかと思わざるを得ませんでした。
「作家」と呼ばれるような種類の人になるための教科書なんてもんは存在しない。誰もなり方を教えてくれないし、自分で情報収集し整理し処理しなければならない。「DMの書き方講座」なんてモンもないし、「展示のやり方」なんて本もない。すべては自ら考え行動することが要求される。
ニューメディアの登場、代表格としてはインターネットの登場で、情報というものを個人で処理する機会が増大した。生の情報に触れる機会が増えた。今まではそうではなかった。人々は生の情報に触れることなどなく故に自分で情報を処理する必要がなかったのです。
よく言われることだが、日本の共同体と情報処理についての関係の指摘がある。
簡略しますが、日本には共同体という内輪的グループが存在し、それは均質的で平坦なものである。そこには西洋的「個人」というものは存在せず、私の作品で言えば「ハリボテ」的なものしか存在しない。そこでは人々は自分で情報を収集することも、整理することも、処理することも必要ない。 情報を処理するのは一部の人々だけで、一般の人々は物事を判断する必要がなかった。
個人はその処理された情報を受け取るだけ。近代ではメディアということになる。それは「考える」という概念が存在しない世界、と言えましょう。故に逆に集団的戦闘には驚異的な強さを発揮するものです。
集団的戦闘では、「個人」という存在は否定の対象となります。
集団的に動く必要があるのに、そこで個人的感情が発生してしまっては全体として威力を失うことになる。集団的戦闘とは例えばリンチであったり、イジメであったり、戦後の驚異的復興であったりする。しかしそういった共同体的強さは、一度個人としての戦いが強要されるとガタガタに崩れ去る。自ら判断し行動するということを知らない、というより全く分からないし気づかないから。
それは写真で作品をみることと、実物をみることは全く違うことである、ということを知っているのと知らないのとの驚異的な差と同程度のもの。これからは情報が価値を持つ時代と言われる。恐らくそうなのだろうと思う。自ら情報収集し、整理し処理できる者が生き残っていくのだろう。
今後、より個人での情報処理が必要とされる世の中で、しかも根本的にそのことが必要とされる「作家」と言う種類の人間が、このことに気づかないのは致命的であるような気がします。 どういう場所で、どういう人々が見る可能性があり、その展示で何をすべきなのか、という事を少なからず考えていれば今回の展示のようにはならないのではないでしょうか。まして今回のような環境ならいくらでも考えるべきことがある。
展示の仕方だったり、DMの作り方だったり。かくいう私も今回この展示を見ることでこのことに気づけた。昨日行なわれた私の展示告知の仕方も反省させられた。勉強になりました。