ここのところ自分の制作に没頭していた。
そして制作を終えふっと息を抜いたとき、ふと工芸論というものに肌で違和感を持った。
それはリアリティーがなかったためだと思う。
それは制作に集中し、作品に対して思考していた私にとって身近ではなかった。
工芸の世界というのはおもしろいもので、「工芸」と言いながらもその内輪にいる人たちにもその語の意味が良く分からない、ひどくあいまいな世界だ。
だから「工芸とは何か?」のような「工芸論」と呼ばれるものがしばしば出てくるし、その内輪の人たちにとっての結構な関心事になってたりする。
そんな工芸論に違和感を持ったのだ。
私が作品を作るときに考えるのは、
多少作品によって違いはあるものの、それが果たして
金属という素材で作る意味があるのか?
固定化し、省みられることのない程当たり前となっている物事に対する批判、検証の眼差しを持っているか?
世界に唯一つのものであると胸を張れるものであるか
というようなことであって、それ故にそこに、工芸とは何か、というような何のリアリティーもないようなものは入り込む余地がなかったのだろう。
制作に没頭していたときの私にとって、工芸に関する議論というものは、
人生の勝ち組になるためにはどうしたらよいか?とか、
公教育はどうあるべきであるか、
といったテレビやあるいは出版物での議論とかわらなかった。
そもそもそれらを話し合う人たちが何故その議題について話し合うのかという理由はあるにしろ意味がない。
たいていはそれらの諸問題と日々格闘しなければならない現場の人間ではなく、その一段も二段も上から物事を見る立場の人々のみで議論されている。
たとえ現場の人間がいたとしても、体裁のみに終始していて、結局はその議論の進行役の人間の意のままに使われることになる。
机上の空論というか肉体性が感じられず、やはりリアリティーがない。
ある個人と個人とがこれからの自分のライフプランの実現に関して、
いつまでに何々をし、そのためにはどうすればよいか、
ということを具体的に話したり、
子供を持つ親が、自分の子供が幸せになるためにはどう教育というものを考えたらよいのか、
というようなことの議論とは明らかに違う。
わたしが工芸論に違和感を感じたのは、それが自分にとって切実でない事柄であったためだろう。
ちょいと考えてみれば学生という造形論も確立していない立場で自分の作品制作に必死になっているときに、工芸はどうあるべきか?、みたいなことにリアリティーを感じるわけもない。ただそれのみが理由でもない気がする。それは今の時点では分からないのだが…。