どのようにして現在の「美術」というのは成立したんでしょ?言い換えればどのようにして「美術」と「工芸」は分離したのでしょうか?
官主導による美術概念の形成
明治初期の美術は、実質的に工芸を中心として展開してきました。そして、民ではなく官主導による文明開化 (懐かしいですねー社会の教科書に載ってたなぁ) の一環として美術という言葉は生まれ、そして民へと伝播していったのです。内国勧業博覧会って展覧会で初めて「美術」ってモンを知った日本のみんなは絵画という名札のぶら下がったところにおいてある絵の描かれた花瓶を見ます。
そうなればその花瓶を見て「これが絵画けぇー!!」って思いますよねー当然。
国による美術概念の形成は、東京美術学校(現在の東京芸大の前身)という日本初の美術教育機関の誕生によっても行なわれます。美術の教育機関でどんな学部が設置され、どんな授業が行なわれたか、ということは美術という概念を人々に知らしめることになりました。そんな感じで美術という概念は人々に知ら れていったのです。
だがしかし!!
前回申し上げたとーり、このときの美術ってのは今で言う工芸みたいなもんが混ざってて、そりゃ混沌としていたわけです。そんなわけで、徐々に「身体検査」 が行われてきます。そう、作品一つ一つを上から下までいやらしい目で舐めるように検査する(笑)ふるいにかけていくんです。。
純粋化の流れ
それはまず絵画の分野で始まります。1882年10月に第一回内国絵画共進会という展覧会が開かれました。この展覧会の規則によると西洋画法による 絵画の出品と、パネル状の絵画以外の形態の出品は「だめー!」とのこと。つまり花瓶にかかれた絵とか掛け軸とかは「だめー!!」 ってこと。
このようにして純粋性、自立性追及の動きの中で行き場を失ったものの受け皿として「工芸」というものが生まれてきた んです。
つまりごちゃごちゃしてるからちょっと整理しよー!! というところで捨てられたものたちをかき集めたら結構な量になったモンで、んじゃあなんか名前がいるわねえ~ということでそのゴミに「工芸」という名前が与えられたわけなんです。ひどいはなし…。そしてこの展覧会を契機にどんどんと純粋化の道を歩むんです。
credit: Sprengben [why not get a friend]
汚物として誕生した工芸
1890年(明治23年)に開かれた第三回内国勧業博覧会ってやつでついに現在の「工芸」のもとといえる「美術工業」なる語がでてきます。ここに言う「美術工業」とは美術と工業にまたがる製造物ということで、規則では絵画、彫刻、建築、造園に属するもの以外で 「殊に美術の精妙なる技巧を実用品に応用せるもの」 と規定されてます。
その後「美術工業」という語は第四回内国勧業博において「美術工芸」と称されることとなりもうす。と同時に第三回展まで「美術」となっていた部門名が「美術及美術工芸」と変更され、現在「工芸」と呼ばれるこの「美術工芸」はついに「美術」から排除されてしまう。。
このようにして絵画・彫刻の純化の過程の中で行き場をなくしたものの受け皿として誕生した工芸を「美術」から完全に閉め出したんです。。 これが「工芸」の誕生のヒミツ☆です…。