この卒業制作真っ只中の忙しい時期に不覚にもダウンしてしまいました。
一昨日制作していたら急に吐き気を催し、だるいながらも作り続けていたのですが、たまらずトイレに急行。しかしまあ吐けない。 どんどん気持ち悪くなってきたモンで保健室で薬をもらったのですが、そのころには体中に痛みが走り出して歩くのも精一杯。 仕方なしに頑張って家にたどり着いたら、もう立ってもいられず即布団に倒れました。ああ情けない…。これほんの2時間あまりの間の出来事です。その後全身痙攣しまして寝るのも一苦労でした。しかし不気味なことに熱は全くありません。
photo credit: Lauren Rushing
「工芸と身体性」なんて事がたまに言われますが、ホントに体あっての作品制作だな、と実感しました。 今は軽い吐き気と頭がくらくらする程度で何とかこの文章を打っていますが、制作となると悔しいが何も出来ません。左手で銅板を支え、右手で金槌を持ちひたすら叩く、という行為を必要とする今の作品はとてもじゃないが作れない。しかも今回の作品はデカイ…。普段あまりにも当たり前のように制作していて気づきませんが、まず体が健康で健全であることが制作の大前提なんだなあ。左手を事故でなくしても、右手上腕を痛めても今の作品は作れない。今作っている作品が、今の自分自身の身体の状態を暗黙の条件として成立していることに今更ながら気付かされました。
パソコンを使うようなデザイン系だったり、建築の図面を作ることだったりならば、現在のテクノロジーなら多少身体に損傷、欠落があってもその分をカバーできますが、わたしのやってる工芸(自ら制作する場合の彫刻も似たような面があるでしょうが)の場合は そうは問屋が下ろさない。工芸というものを、素材の発話から生じる芸術行為と規定するなら、「工芸と身体性」というテーゼは非常に意義深いものがあるなあと感じました。数式では定義できないガラスを吹いたときの微妙なアールと張り具合だったり、自らの指の動きが作り出す陶の繊細な表情だったり、ある特別な温度の炎と、その炎から母材まで絶妙の距離と炎の向きが作り出す、金属の溶けた表情だったり、そういった種類のものを求める時、それは自らの身体性を条件として成立するのだ、ということに気付かされました。
さっさと体治して制作しなきゃ…。焦ります。