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【「反日感情」と言う言葉の危うさと多様性という時代】(05.04.24) 連日中国各地で繰り返されている反日運動でありますが、日本料理店が襲撃されたり、日本領事館の窓ガラスが割られたり、といった映像が連日メディアにより流され、見たことない人はいないでしょう。
反日運動と聞いてイメージしたのは、私の貧弱な対中国知識によるものから、日本の過去の侵略戦争、満州併合政策等での旧日本軍による暴行や、虐待、など大戦下において虐げられた人々がデモを起こしている、というようなイメージだったのですが、テレビなどを見る限り、中国本土でのデモに参加している二十代、三十代前後の若者が多過ぎる。それも携帯電話のメールで反日デモ開催の知らせが回る、お前バリバリにファッション雑誌とかみてメイクとかしてんだろみたいな若い女の子がいる等、貧富の差が広がり続けていると言われる中国において裕福な層の人間ばかりのように見受けられる。
直接虐待されたでもない、日本人が日本の過去のアジア侵略に対してどのような気持ちを持っているのか、ということを実際肌で感じたこともなさそうな人々が何故このような大規模デモを起せるのか?(考えることと行動することの間には大きな標高差があると思ってます) グローバリゼーションが進行する昨今、このような国と国との問題と言われるような事件を見るにつけ思うのだが、グローバリゼーションとは多様化を意味し、それは国とか地域とかのマクロな次元にとどまらず、個人というミクロな次元においても起こっていております。そのようなご時勢に、中国が反日デモを起している、反日感情を持っている、といった記述は、中国国民すべてが反日を掲げていると言うことを意味するのではなく、一部そのような人々が中国にいるということを意味するのだ、ということを我々はいつも考えなければならないのではないでしょうか?。 イスラム原理主義といわれる人々=テロなどの強硬手段、ではありません。イスラム原理主義と呼ばれる人たちは簡単に言えばイスラムの教えに忠実な人々であり、その多くはテロに反対の立場の人々なのですから。 言葉はカオス状態の世界に秩序を与え、見えないものを見えるように、掴みきれないものを掴める様にする。しかしながら無限の要素から成り立つ世界と言うものを、有限の存在である言葉により、そのすべてを表現するのは不可能なことであり、かつその言葉の示す、掴む対象が大きければ大きい程、その大きな中にはその言葉のみでは言い表せない物事が多く存在しているのだ、と言う意識は重要でありましょう。「日本人」と一口に言っても、男もいればオカマもいるし、話す言葉も違うし(日本の方言の違いと言うのは、西欧の国ごとの言葉の違いに匹敵したりする)、車5台も持ってる大学生もいれば中学出てすぐ働かなきゃならないやつもいたりと色々いるわけだ。しかし「日本人」という言葉はそういった多様性を地の底の方に追いやる力を持っている。
多分世界平和ってものがもし実現するなら(その方向を目指すのは当然だが)、草の根的に、国と国とではなく、個人と個人が向かい合って対話していかねばならんのだろうなと、今回の反日デモをテレビで見ていて思った次第です。 |
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