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前衛は『古くさーい』に帰する-金属造形の歴史ギャラリー

(08.3.13)

わたくし赤井の専門である『鍛金』。この分野どういうわけだか非常におもしろい作品を生み出し、時代をリードする造形を世に誕生させてきているにも関わらず、一般にはあんまり知られてちゃいない。

作品を世に紹介する役割を持つはずの評論家、キュレーターといったひとたちに見る目がないのか、広く大々的にたとえば現代美術館や森美術館なんかで展覧会が行われることはないし、メディアにのることもほとんどない。

そんなわけで今日はわたくしが今日の金属造形の礎を作った三人の作家の鍛金作品を勝手にご紹介。

たたいてつくる金属の造形展

いすみ市郷土資料館にて開催された『たたいてつくる金属の造形』展

身近にいる人間から手渡された一枚のフライヤー。「家から近いじゃん!!」と思わずバイクにまたがり走ること1時間弱。 (一身上の都合でここ半年ほど"ド田舎"に住んでいる。)
行ってまいりました「たたいてつくる金属の造形」展。

場所は千葉県いすみ市という聞いたこともないトコロ。加えて会場が「いすみ市郷土資料館」なる建物。。しかし展示者は鍛金の歴史に名を刻む伊藤廣利をはじめとし鈴木治平伊藤祐嗣のお三方。歴史を知らねば何も新しいものは生み出せない。温故知新とはよくいったものだ。。

展覧会会場の写真
開場である、いすみ市郷土資料館。『資料館』の名に恥じず、資料館っぽいつくり。。

伊藤廣利鍛金作品

伊藤廣利作、鉄霞鍛金銀象嵌『蔵』

伊藤廣利作鉄霞鍛金銀象嵌『蔵』
鉄、真鍮、金銀象嵌による作品。
作品上部の木目金(もくめがね)とベースの鉄さびとの対比が美しい。

伊藤廣利作『ねそべるフラッパー』

伊藤廣利『ねそべるフラッパー』
鉄の鍛造作品。
これだけの厚みのある鉄の板と鉄の塊を加工するのには卓越した技術を要する。
郷土資料館ってことで、畳の上での展示。加えてガラス越しの室内の暗さ。
きれいに写真には収められなかった。

伊藤廣利作『裏窓』

伊藤廣利『ねそべるフラッパー』
伊藤祐嗣さん曰く『この会場内で一番価値ある仕事だと思う』とのこと。

伊藤廣利作『無題』

伊藤廣利『無題』

私は伊藤さんご本人にお会いしたことが無いのだが、氏の教え子が小林光男という私の先生だった。

鉄を叩き加工する鍛造と呼ばれる技法で作品を作らせたら日本で1、2の実力を誇り、世界に出しても通用する実力の持ち主だと私は思っているが、その小林光男さんの仕事を見ていると伊藤さんの影響を感じずにはいられない。伊藤さんは亡くなられてしまったが、そのモノの見方と思想は、今でも受け継がれ生き続けている。作品は自分だけでなく、他人の人生とモノの見方を変えてしまうのだ。

鈴木治平鍛金作品

残念ながら会場ではお会いできなかったが、作品は良く存じ上げている。
鍛金とは金属の板材を叩き加工する技法だが、板材で作るからこそ可能になる造形がある。鈴木治平さんの仕事の価値はそこにある。(なにをえらそうに言ってるんだか・・・。)

鈴木治平作『波止場』

鈴木治平作『波止場』
銅と真鍮による作品。
緑色をしているのが銅の板。緑青と呼ばれる銅の酸化物は奥深い緑色を放つ。
塊の素材(粘土とか、陶土とか、FRPとか)を扱う発想では出てこない造形だ。

鈴木治平作『サーカスがくる』

鈴木治平作『サーカスがくる』

銅板を素材とした鍛金作品。
写真ではよく分からないが、これも金属の板から作るので、ガワが表面を形作り、内部は空洞になっている。

伊藤祐嗣鍛金作品

伊藤祐嗣さんは会場でお会いすることができた。

展覧会という名のイベントには数え切れぬほど足を運んでいるが、
『写真を撮らせていただいてもいいですか?』と作家さんに聞いたのは初めてだ。

この金属造形の世界はマーケットとして成立していない。
もっと言えば認知すらされていない。そんな散々たる状況にあっても、積極的に情報発信をする人間は誰もいないし、広く金属アートの世界を盛り上げていこうと動く人間もいない。多くのツクリテは生計と制作が同一ではない。つまり作家でないから危機感が無いし、アクションに至らない。

ひとつの金属造形の歴史を作り上げた作品たちを見ようと思っても、常時見れる場など今の世の中には無い。だからこそそういう場の一つを作れたら、、と思い撮影の許可を願い出たのだ。
伊藤さんは快く承知してくださった。伊藤さんは作家だった。

伊藤祐嗣作『遊山』

伊藤祐嗣作『遊山』

銀と銅でつくられた急須。
表面が荒らされた銀がきれいですね。この作品も金属を金槌で叩いて作っているのだが、その金槌の表面をわざと荒らしておいて使うとこのような表面になる。これを荒らし槌という。

上のお二方の作品とは何か雰囲気が違うのがお分かりだろうか?実用品だから?まぁそれもあるが、一番でかいのは使っている技法が違うことにある。伊藤さんの仕事は彫金と鍛金の複合技。技法は思考を縛り付けるものだ。技法が思考を決定付ける。作るものをある種決めてしまうところがあるのだ。

伊藤祐嗣作、直火燗拵『黒ひさご』

伊藤祐嗣作、直火燗拵『黒ひさご』

銅と鉄でつくられた急須。
『直火燗拵』は『じかびかんこしらえ』と読む。鍛金の仕事と、彫金の仕事の併せ技で可能になる。

うーん。工芸品って感じがしますよねー。洗練された技術がないとつくれない。

伊藤祐嗣作『水滴』

伊藤祐嗣作『水滴』

なんともかわいらしい水滴。
個人的にすごく買いたいですね。

古臭いということと価値

正直なところ今となってはこのような作風の作品を作る若造はなんていません。古臭くって。
古臭いということは一つの時代を作り上げ、一つの価値観を生み出したからこそ古臭くなるのです。時代の価値とならないものは、古臭くなりようがない。

だから古臭いものを横目で見るなんて滑稽以外のなにものでもない。古臭くなれるということはすごいことなのですから。 しかし同時にツクリテとしては、自分の作品はいつまでも新鮮であって欲しいと思ってしまう。ここにパラドックスがある。

金属造形の歴史

わたくし赤井の場合は、作品は革新的でなくてはならないし、新しい価値を生み出さねばならんと思っているので、過去の作品や造形の歴史を学ぶ必要があった。だからこそ自分自身の感覚で古臭いと感じる作品には心から敬意を払うし、またそれらの作品は今となっては古びて見えたとしても、作られた当時は強烈なアヴァンギャルド作品であっただろうと想像できるのであります。

歴史を学ぶといったって、金属造形の歴史などというものは体系的に誰もまとめていないので、自分自身で本を読み漁り、展覧会を見に行き、作品の研究をしないと学ぶことができない。

このお三方の優れた作品を本サイトで発信することで、そんなお役のひとつにも立てたらいいなと思うのであります。(数々の失礼な発言、鍛金の発展のためと思い許してください・・・)

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